あの頃の競馬~1992年その3

競馬のハナシ
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最初の馬連

前回に引き続き、1992年のダービーの話をしよう。

この年のダービーは、断トツ人気のミホノブルボンが人気に応えて1着になったものの、2着に16番人気の穴馬が入り、馬連は29,580円の大穴となった。なお、1992年のダービーは、馬連が発売されて初めてのダービーであった。

ファンが待ちに待った馬連は、まず1991年の8月31日からの函館開催でテスト運用がなされ、10月5日からの東京、京都、福島での開催から発売が開始された。

それまでの枠連時代は、万馬券はほぼゾロ目に限られ、それも滅多に出なかったものが、馬連の導入とともに出て当たり前となっていたが、馬連初のダービーも馬連の15-13が29,580円という大穴となり、枠連の7-7が1,370円であったことを考えると馬連サマサマといったところだろう。

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ライスシャワー

その2着に入選して大穴を演出した馬が、穴馬券にありがちな「一世一代の大駆け」ではなく、後にミホノブルボンの三冠を阻止し、G1を3つも勝つライスシャワーだったというのは驚きである。

この時ライスシャワーは6戦2勝で、勝った2鞍は新馬戦とオープンの芙蓉Sで、ダービー前の2戦は皐月賞、NHK杯がともに8着だから、単勝114.1倍も頷けるが、後の活躍からは考えられない低いオッズである。

そんな波乱万丈な競争生活を送ったライスシャワーも、3つめのG1勝利となった春の天皇賞の次のレースである宝塚記念で骨折し、その場で安楽死の措置が執られるという非業の死を遂げる。

なお、勝ったミホノブルボンの鞍上、小島貞博騎手も、20年後の2012年に自死を選び還らぬ人となった。また、ミホノブルボンの15番枠とライスシャワーの13番枠に挟まれた4番人気、14番枠のゴールデンゼウスに騎乗していたのは、この翌年に落馬により殉職する岡潤一郎騎手であった。

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サンエイサンキュー

また、サンエイサンキューが有馬記念で骨折したのも、この1992年(闘病の末、亡くなったのは2年後の1994年)であり、9月には玉ノ井騎手が落馬により命を落としている。

少し、悲しい話ばかりになったが、華やかなレースの陰で、馬と人、どちらも命を落とすこともある、そんな命懸けのスポーツであるという事は、ファンである私たちも忘れてはいけない。

もちろん、あってはならないことであり、事故の防止には万全の注意を払わなければいけないが、命懸けだからこそ、震え、泣き、感動する。それが競馬なのだ。

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ターニングポイント

そんな1992年であるが、悲しい話ばかりではなく、新たな時代の始まる希望の年でもあった。

騎手では、「鉄人」増沢末夫が引退した一方、「レジェンド」武豊は3年連続のリーディングジョッキーとなり、その地位を確立し、馬の方では、エルウェーウィンがG1(朝日杯)を勝ち、シンコウラブリイやヒシマサルが重賞を席巻するなど、外国産馬の活躍が目立っていた。

前年に導入された馬連も定着したし、JRA-VANの運用が開始されたのもこの1992年。今の牝馬の活躍やダート路線の充実を思わせる、サンエイサンキューの史上初の牝馬による札幌記念の優勝や、芝でも活躍したナリタハヤブサの武蔵野Sでのレコード(ダート1600)などもあった。

古き良き競馬もいいが、新たな競馬というのも競馬界の発展のためには、なくてはならない。そんな新しい時代の幕開けでありターニングポイントとなったのが、この1992年だった。

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