競馬の祭典「ダービー」
競馬に携わる全ての者の目標、それは競馬の祭典であり最高峰のレース「ダービー」を勝つことである。皐月賞は「最も早い馬」が、菊花賞は「最も強い馬」が勝つと言われる。では、レースの頂点である「ダービー」はどんな馬が勝つと言うのだろう。
それは「最も運のいい馬」である。実力だけでは勝ち取れない、運が必要だと言うのだ。そして、ダービージョッキーも同じく「運のいい騎手」でないと、この最高の栄誉となる「ダービー」は勝てない。
2012年に史上7人目の2000勝を達成し、有馬記念(2回)・皐月賞(2回)・菊花賞・牝馬3冠などG1を27勝(2019年12月27日現在、以下同じ)している蛯名正義がダービーを勝っていないのは、競馬界の七不思議の一つとも言われる。
2013年に中央入り後、3度のリーディングジョッキーとなり、有馬記念・皐月賞などG1を7勝している戸崎圭太も、ダービーは惜しい2着が2回あるが、勝ててはいない。
事ある毎に「ダービーを勝ったら騎手を辞めてもいい。」と言っていた名手柴田政人は、19回目の挑戦で念願のダービーを制した(ウイニングチケット)が、その甥で2000勝ジョッキーである柴田善臣は、未だダービーは未勝利である。
ダービージョッキー
競馬会のレジェンド、武豊の5回は別格として、名だたる名手でさえ2回勝つことは難しい。岡部幸雄、安藤勝己、そしてルメールさえ1回しか勝てていない。2018年にダービーを勝った福永祐一の父である「天才」福永洋一も、ダービーは勝っていないのだ。
そんな「運のいい騎手」でないと勝てない「ダービー」を2勝している騎手は、増沢末夫、小島太、四位洋文、横山典弘など史上13人いる(3勝以上しているのは、5勝の武豊のみ)が、その中で最も地味であり実績がない騎手、それが「小島貞博」である。
1992年のミホノブルボン、1995年のタヤスツヨシともに堂々たる1番人気での勝利である。見た目にも地味な小島貞博であるが、2回もダービーを勝つ程の秘めた「運」を持っていたのだろう。
なお、小島貞博の通算成績は4722戦495勝と、決して1流の成績とは言えないが、ダービー2勝のほかに中山大障害も2勝しており、両レースを2勝しているのは、小島ただ一人である。稀有な騎手と言っていい。
ミホノブルボン
1971年の騎手デビューから1991年のミホノブルボンとの出会いまでの20年は、24勝を最高に10勝〜20勝程度の勝ち星しかなく、しかも1986年までは平地・障害の両方に騎乗しており、1982年などは障害(14勝)の方が平地(10勝)より勝ち星は多かった。
その1991年、小島の所属する戸山厩舎に入厩したミホノブルボンは、戸山調教師のスパルタ教育に耐え、「坂路の申し子」と呼ばれた。ミホノブルボンはデビューから快走を続け、小島貞博の初G1勝利となる朝日杯3歳Sを敗け無しの3連勝で制する。
戸山調教師は、馬をハードトレーニングで鍛える一方、人(騎手)も育てるべきとの方針を捨てず、いくら強い馬であっても有力騎手には依頼をせず、所属騎手に任せることにしており、ミホノブルボンのクラシックも小島貞博が騎乗することとなった。
決して上手いとは言えない小島にとって、戸山厩舎の所属であったからこそ乗り続けることができた超一流馬ミホノブルボン。その境遇に置かれていた事が、小島の持つ大きな「運」であった。
なお、日本最強馬にも挙げられるこのミホノブルボンは、決して1流とは言えない種牡馬である父マグニテュードと、地方競馬で1勝しただけの母カツミエコーという地味な血統で、母の父シャレーに至ってはこのミホノブルボンの血統表以外で見たことが無い程の零細種牡馬である。
そんな地味血統のミホノブルボンと、寡黙で人付き合いが苦手、不器用を絵に描いたような男である小島貞博のコンビが、トップジョッキーや良血馬を蹴散らして快走する姿は痛快であった。
ダービージョッキーとなるが
ミホノブルボンと小島貞博は、年明けのスプリングS、そしてクラシック第一弾の皐月賞を共に逃げ切り、1番人気でダービーを迎える。前年に初めてG1を勝ったばかりの、年に20勝程度しかしていない騎手にとっては、あまりに重荷ではなかったか。
しかし、そんな重圧も跳ね除けて、小島貞博とミホノブルボンは、ライスシャワーに4馬身もの差をつけてダービーを逃げ切った。馬の力も凄いが、小島貞博の落ち着いた騎乗も印象に残る。
なお、後に菊花賞でミホノブルボンの3冠を阻止し、天皇賞(春)を2度も勝つライスシャワーであるが、なんとこのダービーにおいては18頭中16番人気だった。
そのライスシャワーは、ミホノブルボンの3冠、そしてメジロマックイーンの天皇賞(春)3連覇を阻止するなど「悪役」のイメージがつきまとい、しかも最期は宝塚記念の故障により予後不良となってしまう。
また、この年は1月の阪神・淡路大震災によって、宝塚記念の開催がライスシャワーが得意とする京都開催となっていた。そうでなければ、宝塚記念への出走は無かったかもしれない。「不運」としか言いようがない。
戸山調教師との別れ
一方の小島にも不運が訪れる。小島をして「本当の父親以上の愛情をもって接していただいた」という戸山調教師は、既にミホノブルボンの菊花賞の際には病気(食道がん)を患っており、不幸にも翌年5月に亡くなってしまう。
厩舎は解散となり、小島はフリーとなるが、戸山厩舎から多くの馬を引き継いだ森秀行調教師は小島に騎乗依頼をすることはなく、小島は調教をつける馬さえいない状態となった。
そんな状況を見かねた鶴留調教師が小島を支援する。小島はその期待に応えるように、1994年に鶴留厩舎所属のチョウカイキャロルでオークスを勝ち、翌1995年にはタヤスツヨシで小島にとって2度目となるダービー制覇を成し遂げる。
ちなみに、1994年の小島の勝ち星は23勝で、ダービーを制した1995年に至っては13勝しか挙げていない。大舞台に強く、そして大きな「運」を持っていたとしか言いようがない。
調教師時代とその最期
1996年に25勝を挙げた以降の勝ち星は1桁台にまで落ち、1996年からは調教師試験の受験を始めている。2001年に合格した際の会見には、戸山調教師の未亡人も同席し、喜びを分かち合ったという。
調教師としては、1年目から15勝を挙げるなど順調な滑り出しで、2005年には娘婿の田嶋翔の騎乗によりテイエムチュラサンがアイビスサマーダッシュに優勝、同年にはテイエムドラゴンが中山大障害に優勝などの活躍を見せるなど、堅実な厩舎運営を続けていた。
一方で、投資に失敗した親戚の保証人となっていたことで、多額の債務を負うこととなり、厩舎スタッフの給料の支払いが遅れるなど、調教師免許更新が危ぶまれる事態に追い込まれていた。
そして、免許更新にかかる面接の前日である2012年の1月23日、小島貞博は自厩舎の2階で首を吊った状態で発見される。
運の総量
1度勝つことさえ難しいダービーの栄冠を2度も勝ち取り、調教師としても十分な成績を残した小島貞博は相当な「運」を持っていた。
運には、人それぞれに総量があるという考え方がある。そして、その総量が大きな人もいれば小さな人もいる。また、その総量を超えてしまった場合は、別のところで運を使い果たしてしまうとも言う。
視聴率100%と言われ昭和のテレビを席巻した「欽ちゃん」こと萩本欽一は、良いことが起こりすぎると必ず悪いことが起こるという考えを持ち、そのために、わざと不幸を買って出ていたという。
例えば番組や私生活がうまく行き過ぎたと思った時に、金魚を沢山飼う。すると、幸運の身代わりであるかのように金魚が亡くなるという。というより、そのために飼うということらしい。
なお、欽ちゃんは馬主でもあり、小倉記念を勝ったアンブラスモアや、ダービーに出走(9着)したパリアッチなどを所持していたが、これも実は芸能生活を上手く続けるためのもので、馬が負けるのは寂しいがその分、仕事が上手くいくはずという、運の総量のバランスを取るためにやっていたようだ。
運の総量と人
ダービーと中山大障害をそれぞれ2回も勝った小島貞博は、運を使い果たしてしまったのだろうか。いや、運の総量は決まっていても、人との関わりの中で増えるものだと私は思う。
戸山調教師が小島を評価した言葉にこういうものがある。
「人気から比べると技術の方が上。人気よりも腕があるという言い方よりも、腕よりも人気がない。」
ひとつには、腕の割に騎乗依頼が少なく(これは、歯に衣着せぬ言動の多い戸山調教師が、自分のせいだとも言っている)、ファンからの人気も少ないという事と、そしてもうひとつには、決して腕は超一流では無かった事を言っていると思われる。
そんな小島貞博がダービーを2回も勝てたのは、運の総量が元よりそれだけあったのではなく、戸山調教師、鶴留調教師との出会いにより、運の総量が増えていたのだと思う。
もし、最期の時に、助ける事のできる人との出会いがあれば、自ら死を選ぶことなく、今も調教師として所属馬、そして自ら育てたジョッキーの活躍が見れていたかもしれない。残念である。冥福を祈る。
コメント
森という調教師
保証人
そういうことでしたか