行き着く先
50歳を3年ほど過ぎたロートル競馬ファンで負け組代表の私だが、そんな私にも夢がある。そのひとつは馬主になることだが、これはもう無理かもしれない。いや、もう無理だろう。
もうひとつの夢は、いまから精進すれば叶うかもしれない。その夢というのは、競馬新聞は買わず、レーシングプログラムとパドックだけで馬券を買って、しかも勝つという、こちらも壮大な夢である。
最後は馬だけを見て馬券を買う。これは競馬ファンなら誰しも行き着きたい究極の買い方で、白髪の老人がパドックでうんうんと頷き、単勝を1点だけ購入する。それがビタリと当たって、しかもオッズは20倍。いやあ、格好いい。格好良すぎる。
現実には、新聞とにらめっこし馬単やら3連単を、外す方が難しいというくらいの点数をしこたま買って、計ったように抜け目で決まるのだから、格好悪いったらありゃしない。
パドック
もちろん、競馬を始めた頃から見よう見まねでパドックには足を運んでいて、見る目を養ってきたつもりだが、これが一向に上手くならない。分かるのは馬っけ(イチモツが立派になっている状態)を出しているのと、異常に汗をかいている馬がいることくらい。
しかも、馬っけを出している馬は集中力に欠け、無駄な体力を使っていることから、一般的には買ってはいけないと言われるのだが、あまりに立派なため敬意(畏怖?)を表し馬券を買ってしまう(もちろん当たらない)ため、パドックを見る意味がない。
汗をかいているのも、気合いが入っているとも言えるし、何だか走りそうに見える場合もあって、結局よく分からない。逆に元気が無さそうに見える馬も、言い方を変えれば落ち着いているとも言える。
縦横の比較
そして、なんと言っても馬には個体差があり、少し気合いがあった方が良い馬もいれば、落ち着いてなければ力が出ない馬もいるから、出走する馬のそれぞれの良し悪しである「横」の比較だけではなく、一頭一頭の馬の性格や調子を見極める「縦」の比較が必要となる。
今、目の前で少しイレ込んでいるように見える馬がいたとしても、前走時にパドックでも同様のイレ込み具合で好走しているなら問題ないであろうし、逆に、前走時にイレ込んで負けていればやはり割引く必要があろう。
そうなると常にパドックは見ておいて、その馬の性格や調子を覚えていく必要がある。競馬は記憶のゲームと言われる所以(ゆえん)である。やはり、楽して儲けるのは難しく、継続と努力が必要なのだ。しかし、それができるなら博打じゃなく仕事で稼げそうだし、そもそも楽して稼ぎたいのが博打なんだよなぁ。
パドックとは
地方競馬なんかを見に行くと、豚かと思うほど明らかに太い馬とか、野生の馬みたいに冬毛がボサボサなのがいて、素人でも馬の見極めができる。まあ、中央からの転厩だと、そんな豚みたいなのでも勝っちゃうんだけど…
それからすると、中央競馬の馬なんかはどの馬もピカピカに締まっていて、まさに走る芸術品というやつで、どの馬も素晴らしく見える。「レースにでる以上は全馬仕上がっている」という考え方もあって(大橋巨泉氏もその考えだった)、見た感じも確かにそうなっている。
その考えからすると、パドックは見る必要が無いことになるし、実際パドックを見ないで買うファンも多い。渡しも基本的にそうである。じゃあ、パドックなんかいらないかと言うと、そうは思わない。
レース前のパドックで厩務員にひかれて馬が歩き、騎手が集まり跨がるという一連の動きが、美しくまた心地よい緊張もあり、勝ち負けを忘れて競馬を楽しんでいるという気持ちにさせてくれる。これがあるから、数ある博打のなかで競馬が一番好きなんだと再認識できる。それがパドックなんだろう。
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