信長の野望とアキヒロホマレ

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信長の野望

私が初めて触れた信長の野望は、高校時代、友達の持っていたPC-8001で動く信長の野望で、まだ全国版ではなく、畿内と中部17ヶ国に限られたものであった。

その後、PC-8801で全国版が発売され、南は島津、北は蠣崎まで選択できるようになったが、私の一押しは四国は土佐の長宗我部。イチオシの理由は、まずは四国を統一しという分かり易い進め方と、四国に敵無しというやりやすさからである。

その頃はゲームとして戦国時代を知っていただけであり、私には長宗我部は単なる記号であったが、大人になって司馬遼太郎の「夏草の賦」(なつくさのふ)を読み、その切なさを知った。そしてまた私はアキヒロホマレを知った。

四国統一

戦国時代、四国は群雄割拠の時代であったが、土佐を制圧した長宗我部氏が元親の代になって隆盛を極める。伊予の河野氏、阿波の三好氏、そして讃岐の十河氏などを次々に滅ぼし、四国統一を成し遂げる。

とここまでは、単なる成功譚であり、長宗我部元親を讃えるだけの話であるが、長宗我部元親には厳しい未来が待ち受けていた。なんと念願の四国統一を達するや否や、秀吉に討伐され、元の土佐一国に減封されてしまうのだ。酷い。

学生横綱が角界入りして苦労するとか、ドラフト1位ピッチャーが未勝利のまま引退するとか、似たような例はいくらでもあるが、それらの場合は上がありそうなこと、自分より強い者がいるであろうことは知っているし予想できるだろうが、長宗我部元親の場合は、どれくらい日本のこと、秀吉のことを知っていたか。

知ってたら、ここまで頑張らなかったヨ。とは思わなかったのだろうか。

アキヒロホマレ

そこで、アキヒロホマレである。彼の場合は明らかに知らなかったはずだ。自分が一番の馬だとと思っていたら、まさかビリだったなんて。サラブレッド?知らんがなと。そう、馬は馬でもアキヒロホマレはアングロアラブ。サラブレッドには適わない。アングロアラブの頂点は、サラブレッドの底辺なのだ。

今は無くなったが、私が競馬を始めた平成のはじめ頃はアラブによる競争が存在しており、地方競馬ではむしろアラブのレースがメインだった。(ように思う。)そんな状況の中、中央競馬のアラブ競争でデビューしたアキヒロホマレは、初戦、2戦目とともにレコードで楽勝し、アラブでは相手がいないとして、サラブレッドに挑戦した。

その小倉3歳Sでは、サラブレッドに混じり4番人気に押されるが、結果は最下位の16着。彼はどう思っただろうか。2戦連続で楽勝し、臨んだ次のレースで惨敗。俺が遅くなったのか、相手が揃いも揃ってみんな強くなったのか。というか、こいつら何?誰?

もちろん、俺がアラブであいつらがサラブレッドとは、アキヒロホマレには分からないだろう。となると、かえって不思議ではなかったか。俺とあいつらのどこが違うのか。

その後

アラブ同士では無双し、小倉3歳Sで負けた後、10連勝して迎えた1989年の銀杯では、65キロを背負って2着馬を1.3秒ちぎる楽勝。単勝1.2倍も美味しいオッズに見えてくる。勢いに乗って小倉大賞典でサラブレッドに挑戦、単勝4.5倍の2番人気に推されるも、14着と惨敗。

やはりサラブレッド相手では全く相手にならないが、これだけの人気を集めるのは「アキヒロホマレならひょっとして」との期待がいかに高かったのかが分かる。この年の11月にはアラブ王冠でとうとう70キロを背負わされるが、それでも0.4秒差の1着となっている。

その後は大井の全日本アラブ大賞典で2番人気の8着(当時のアラブは地方が強かった。)、サラブレッドと混じって走った陽春Sで3着などの成績を残した。

今でも、中央で惨敗した馬が地方へ下り、楽勝するような例はよくあるが、馬にとっては種別や血統の違いが分かるはずもなく、何でこんなに速くなったり遅くなったりするのか、馬だちはどう思っているのだろうか。

ただ、少なくとも長宗我部元親ほどの屈辱を味わうことはないだろうから、馬たちは幸せである。

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