競馬界のエンターテイナー、後藤浩輝を偲んで

騎手列伝
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アロンダイトと後藤浩輝

2019年のチャンピオンズカップ(G1)は、3歳馬の2番人気クリソベリルが、無傷の6連勝(それまでの5戦は、中央2勝、地方重賞3勝)で砂の王者、1番人気のゴールドドリームを破り、初G1制覇を成し遂げた。

前走の日本TV杯(Jpn2)で、初めての古馬との対決で一線級を破っているものの、一昨年のこのレースの覇者であり同年の最優秀ダートホースであるゴールドドリーム、7連勝を今年のフェブラリーS(G1)で飾ったインティと、更に超一線級となる骨のある相手であり、クリソベリルにとっては試金石となる一戦であったが、堂々たるレースぶりであり、この一戦をして一気にダート界の頂点に立った(現在、故障休養中である昨年のチャンピオンズカップの勝馬、8戦7勝の怪物ルヴァンスレーヴがいたらどうなっていたか。)。

連勝で挑んだ初G1での勝利、赤い帽子と白と緑の横縞模様、そして内から抜け出すレースぶりを見て、ある馬とある騎手を思い出したという人も多かったのではないか。私は真っ先に思い出すと共に、少し悲しい気分にもなった。

それは、チャンピオンズカップの前身となるジャパンカップダートの2006年の覇者アロンダイトと、その鞍上、後藤浩輝である。このレースの後、脚を手術し、更には怪我などもあって、アロンダイトは、その後勝ち星を挙げる事はできず、このチャンピオンズカップでの勝利が最後の勝ち星であった。

アロンダイトとクリソベリル

なお、血統とその実績から種牡馬になってもおかしくはないのだが、同じエルコンドルパサー産駒である一つ上のヴァーミリアンには及ばず、今は乗馬になっている。

また、アロンダイトの全兄妹であるクリソプレーズは、宝塚記念(G1)を勝った名牝マリアライト、神戸新聞杯(G2)を勝ち菊花賞で1番人気(3着)となったリアファルといった芝の名馬を産んだ名牝であるが、ジャパンダートダービー(Jpn1)を勝ちダイオライト記念(Jpn2)を3連覇したクリソライトというダートの名馬も産んでいる。

そして、アロンダイトの全兄妹である、クリソプレーズの2016年の産駒が、チャンピオンズカップを勝ったクリソベリルである。

アロンダイトの一族の活躍をよそに、アロンダイトの鞍上であった後藤浩輝はもういない。チャンピオンズカップのレース後、真っ先に思い浮かんだ後藤浩輝のガッツポーズは、もう見ることはできない。

後藤浩輝という騎手

関西を主戦場としていた私の後藤浩輝に対するイメージは、岡部幸雄引退後の横山典弘、柴田善臣、蛯名正義の次あたり、田中勝春、中舘英二と並ぶ、関東の4番手〜6番手という印象だった。

そして、有馬記念に徹夜で並ぶファンにカイロの差し入れをしたり、勝利インタビューでは「神風」と書いたハチマキや額に「そよ風」と書いて登場したり、イベントには積極的に参加するなど、競馬会きってのエンターテイナーであり、ファンを大切にし競馬界を盛り上げようとする姿勢は好印象であり、一言で言えば「気のいいお調子者」というイメージであった。

その一方で、俗に言う「木刀事件」による吉田豊に対する暴力により、4ヶ月という長期の騎乗停止をくらうという一面もあり、捉えどころのないというか、表裏のある人物というような印象もあった。

※木刀事件
日頃から仲が悪く、態度の悪かった2年後輩の吉田豊騎手に対し、後藤浩輝が木刀を持って独身寮(若駒寮)へ押し寄せ、暴行を加えたという事件。暴力という手段は論外であるが、競馬関係者からは後藤に対する擁護や同情論も多く、吉田豊の普段の行動や態度にも問題があったという見方も多い。

騎乗に関しては、勝ち星の割には印象的な騎乗はあまりなく、大レースにも勝つには勝つが、取り立てて大物食いというほどでもない。上手いとも思わないが下手でもないという、人物の派手さや見た目とは程遠い、地味な騎乗ぶりであったように思う。

波瀾万丈の騎手人生

しかし、騎手人生は波瀾万丈。1992年のデビュー時に所属した伊藤正徳調教師とは反りが合わず、僅か3年でフリーとなり、4年目に21勝を挙げるも、翌年には単身アメリカへ。そこでは約束したエージェントに逃げられ、一人で厩舎を周り騎乗依頼をしたという。アメリカでの成績は158戦してたったの7勝というから、その頃の苦労が良く分かる。

そもそも、競馬関係者との血縁なども無く、乗馬さえしたことが無いまま入学した競馬学校では、最も下手と言われて落馬を繰り返し、初勝利は同期でも一番遅かったというから、相当な努力を積んだことだろう。

そんな後藤浩輝も、日本へ帰国後は徐々に成績を上げていき、1997年には46勝、1998年には63勝と順調に伸びていく。アメリカ巡業を初めとするそれまでの苦労は、無駄では無かったのだろう。ようやく掴みかけてきたトップジョッキーへの道。そんな大事な時に後藤浩輝は大きな事件を起こしてしまう。

それこそが吉田豊に対する暴力事件、いわゆる「木刀事件」である。スポーツ新聞のトップ記事となったこの事件により、長期騎乗停止を余儀なくされた後藤は、伸びかけていた勝利数がこの年は61勝で終わってしまう。

関東のトップジョッキー

しかし、翌2000年は見事に蘇り自己最多の101勝を挙げ、関東リーディングの2位となる。これは、本人の努力はもとより、(もちろん暴力はあってはならないが)「木刀事件」での後藤浩輝の行いについては、競馬サークルでは同情的な声も合ったという話とも符号する。

その後は常に80勝〜110勝を挙げ、リーディング上位の常連となり、押しも押されもせぬトップジョッキーとなった。2007年にはとうとう関東のリーディングジョッキーとなり、2010年から始めたTwitterではファンの質問にも答えたり、ファンにカイロの差し入れをしたのもこの頃(2014年)である。

パフォーマンスのみならず、実力も兼ね備え、競馬会騎手部門のスポークスマン的立場として、相応しい人間になりつつあった。そんな順調な後藤の騎手生活に、影を落とす出来事が起こる。今度は事件ではなく事故だ。

後藤浩輝とシゲルスダチ

2012年5月6日の東京競馬場。メインレースであるNHKマイルカップに、後藤はシゲルスダチと共に参戦する。最後の直線、岩田康誠騎乗のマウントシャスタの斜行により、後藤は落馬。当初は軽い頚椎の捻挫との診断であったが、翌日の精密検査で「頸椎骨折の疑い、頸椎不全損傷」の重症であることが判明した。

懸命のリハビリに耐え、4か月後の9月8日に復帰したのも束の間、その日の第3レースの馬場入場時に、またしても落馬してしまう。当日は騎乗を続けたものの、後に「第二頸椎骨折、頭蓋骨亀裂骨折」と診断され入院することになる。

復活、そしてまたしても落馬

1年後の2013年10月5日に復帰を果たすと、14日には復帰後初の重賞となる南部杯(Jpn1)をエスポワールシチーで逃げ切り、見事な復活劇を見せてくれた。

しかし、半年後の2014年4月27日、東京競馬第10レースの最後の直線、またしても岩田の斜行より落馬し、頸椎を骨折し「第五、第六頸椎辣突起骨折」により全治不明との診断を受ける。引退まで考える程の重症であった。

この落馬の際には、「またしても岩田」という部分がクローズアップされ、普段から荒っぽい騎乗の目立った岩田に対する批判が多くなされ、後藤の亡くなった後には元騎手の藤田伸二などは、「絶対に許さない」と徹底的に批判を繰り返した。

しかし、後藤本人は「騎手という職業は常に死と隣り合わせ。その覚悟がないといけない」、岩田に対しても「恨み?そんなのまったくない。お互いプロなんだから。」と知人に話していたという。

後藤のそれまでの行動から、プロ意識は高く、騎手という職業に対する真摯な姿勢が見受けられ、事故や落馬についても許容しているはずであり、競馬関係者も自死の直接の原因は落馬ではないと言い切る。

それでは一体、彼が自ら死を選んだのは何が原因なのだろうか。それを探るためには、まず彼の生い立ちを知る必要がある。騎手となってからの人生も波瀾万丈であるが、実はそれまでに彼に起こった事の方が何倍も衝撃的であった。

壮絶な半生

小さい頃から家庭内は不和で、父親の母親に対する暴力も酷く、両親は離婚し母親と姉、そして後藤の3人は家を出る。しかし、後藤は父を置いておけず、父の元に戻る。

そこで待っていたのは、父の自殺未遂と無理心中であった。後藤曰く、「ある日、父が落ちてきた」。それは、まさに首を吊ろうとして失敗して落ちてきた父の姿であった。

そして、その日から数日後、今度は後藤の首を締めてしまう。

しかし、これだけでは終わらなかった。その日からまだ何日も経っていないある夜のことである。僕はすでに床に入って寝付いていたのだが、突然、息苦しくなって目を覚ました。呼吸ができず、とにかく苦しいのだ。なぜそんなことが起こったのか、咄嗟には理解できなかったが、目を開けたときに恐ろしい事実を知った。父が、僕の首を絞めていたのである。

引用:後藤浩輝『意外に大変。』東邦出版

そんなことがあり、後藤はまた母の元へ走るのだが、その母は新しい夫と暮らしており、結局は父の元へ戻ることになる。しかし、今度は母が後藤を追って父の元へ戻り再婚する。

その後、弟が産まれるのだが、弟の父は後藤の父とは違う、あの時の彼氏だった。その事を後藤が知ったのは随分後の事であったらしい。

後藤の自死の原因は、元々情緒不安定であったところに原因があるとも言われているが、このような家庭環境の上、実の父から首を絞められたこともあったことから、十分に頷ける。

実の父から受けた無理心中によって、父を信じる事ができなくなり、さらに自分自身を否定された気持ちとなる。数々の奇抜な言動や行動、道化じみたパフォーマンスは、世を厭い、自分を捨てたいといった後藤の内面がそうさせていたように思えるのだ。

後藤浩輝の最期

引退をも考えた2014年4月の2度目の大きな落馬の後、半年後の11月22日に復帰をする。2日後の24日、復帰後初勝利を挙げた際には大きな拍手が送られたというから、後藤の苦労と努力はファンに知れ渡っており、その復帰と活躍を待ち望んでいたことが分かる。

復帰後は順調に勝ち星を積み重ね、大きな怪我があったことを忘れるほどであったが、本人の心と身体は悲鳴を上げていたのかもしれない。2度の大きな落馬による恐怖心との闘い、思うように動かない身体のもどかしさ、騎手として真摯に真面目であればあるほど、大きな圧力になっていたのではないか。

そして、翌2015年の2月21日のダイヤモンドステークスで、またしても落馬してしまう。このことが自死への引き鉄になったのかどうか、それは本人にしか分からない。翌22日は京都競馬場で2勝を挙げ、26日には演歌歌手の公演を楽しんだ事を笑顔の写真とともに Facebookにアップしているから、他人から見ればいつもと同じようには見える。

そして運命の2015年2月27日、自宅の脱衣所において、首を吊って亡くなっているところを妻に発見される。事故ではないかとの見方もあったが、警察は事故・事件性はなく自殺との見解であり、やはり自死を選んだのだろうと思う。

競馬会にとっては大きな損失となったが、後藤の抱えた恐怖や悩み、トラウマから逃れて楽になったと思いたい。

活躍した馬は、引退した後も亡くなった後も、その仔や孫が活躍することで思い出される事も多い。一方、騎手の場合は、時間とともに忘れ去られる事も多い。それを思うと余計に悲しくなる。後藤浩輝騎手には安らかに眠ってほしい。

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