幻のダービー馬

競馬のハナシ
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マルゼンスキー

幻のダービー馬と言えば、どの馬を思い出すか。世代によっても違うであろうし、人によって馬の強さの感じ方に違いはあるから、100人のファンがいれば100頭の「幻のダービー馬」がいてもおかしくない。

オールドファンなら、真っ先に思いつくのが、朝日杯3歳ステークスをレコードで大差勝ちし、2着につけた着差が合計61馬身、8戦8勝で屈腱炎により引退した、持込馬のマルゼンスキーだろう。

持込馬とは、外国で種付けされた母馬から日本で生まれた馬を言うが、マルゼンスキー以前には、ダービー馬となったヒカルメイジや天皇賞を制したタイテエムなどの持込馬がいた。

しかし、1971年、貿易自由化に伴う国内生産者の保護のため(当時、国内生産馬は弱く、海外生産馬とは勝負にならなかった。)、持込馬は外国馬と同様に、有馬記念を除く八大競争への参加ができなくなった。

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遊んで勝っていた

この政策は1984年には解消されるが、マルゼンスキーが目指すダービーは1977年。この保護政策のため、ダービーへの出走を断念せざるを得なかった。

当時の「残念ダービー」と言われた日本短波賞では、後にセントライト記念、京都新聞杯を連勝の上、菊花賞を制する強豪プレストウコウに7馬身差を付けて快勝していることからも、ダービーを勝っていた可能性は高く、まさに「幻のダービー馬」と言っていい。

その日本短波賞は、スタートから難なく先頭を奪い、6~7馬身差をつけて快走するも3コーナーあたりで突然やる気をなくしたのか失速、2番手の馬に追いつかれるものの、少し気合いを入れただけで再度突き放しにかかり、最後はプレストウコウに7馬身差をつけて勝つという凄いレース。

やはり、井崎脩五郎氏をして「重賞で遊んで勝てた馬」と言わしめたこのマルゼンスキーは、幻のダービー馬の本命であろう。

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幻の理由

マルゼンスキーが幻となった理由は、出走の権利がなかったというものであるが、同じ理由でダービーに出られなかった馬として第二次競馬ブームの立役者となったオグリキャップがいる。

オグリキャップは、知ってのとおりそのデビューは地方競馬であり、もちろんクラシック登録などされている訳もない。今は追加登録という制度ができたこともあり、高い登録料(通常40万円のところ、追加登録は200万円)を払ってでも急遽参戦したいという馬にも、クラシック出走の道が開かれているが、当時はそんな制度もなく、涙を飲んでいる。

他には怪我で参戦できなかったという馬も多い。4戦4勝の無敗で皐月賞を制したアグネスタキオン、皐月賞を前に負けなしで引退したフジキセキ、その素質を誰もが認めていたシルバーステートなど、競走馬の宿命とも言える屈腱炎により、ダービーへの出走が叶わなかったという馬は多い。

そんな「幻のダービー馬」たちであるが、ここからは、出走したにもかかわらず「ダービー馬」になれなかった「幻のダービー馬」を取り上げてみたい。

いや、そりゃ単にダービーに出走しただけの馬じゃあないかと言われるかもしれないが、そもそも「幻のダービー馬」なんてのには定義はなく、ファンがそう思えばそれでもう「幻のダービー馬」なのであって、それが出走して負けていても構わない。そして、そんな「幻のダービー馬」は、誰にでも存在しているはずだ。

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関西の秘密兵器

私が真っ先に思いつくダービーに出走した「幻のダービー馬」は、「ロングシンホニー」である。武邦彦(武豊の父)を鞍上にして1番人気でダービーを勝ったロングエースや、エリザベス女王杯を制した名牝ロンググレイスを輩出した、関西のファンには馴染みの深い「ロング」の冠号を持つ「関西の秘密兵器」である。

1989年当時、今では考えられ無いが、関東と関西の馬質には大きな差があり、大レースの勝ち馬はほとんどが関東馬であり、もちろんダービーも6年連続で関東馬が制していて、その中には2頭の三冠馬(ミスターシービー、シンボリルドルフ)も含まれていた。

そんな状況もあって、関西の競馬ファンは毎年のように「関西の秘密兵器」を探し出し、関西馬によるダービー制覇をその秘密兵器に託すのであった。たとえば1986年は皐月賞を回避し、NHK杯を3戦3勝で制しダービーに挑戦したラグビーボールなども「関西の秘密兵器」と呼ばれ1番人気に推されたが、惜しくも4着に破れている。

なお、このラグビーボールの馬主は、オレハマッテルゼやエガオヲミセテで有名なあの小田切有一氏の所有馬である。

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1989年のダービー

この年1989年のクラシックは有力馬の怪我や雨の影響もあり、大混戦であった。本来なら、3歳(現2歳)チャンピオンで前年度のダービー馬サクラチヨノオーを兄に持つ良血馬のサクラホクトオーが主役となるはずであったが、苦手の不良馬場で調子を狂わせたのか、弥生賞12着、皐月賞19着と精彩を欠いてしまい、このダービーでは5番人気と人気を落としていた。

ちなみに、その弥生賞を勝ったのが「不良の鬼」と言われたレインボーアンバーだったから、いかに酷い馬場だったかが分かる。同じく不良馬場であった皐月賞を制したのは、地方(道営)出身のドクタースパートだったが、力のいる不良馬場に助けられた勝利と見られ、このダービーでは4番人気であった。

3番人気は皐月賞で2着となった、このダービーを勝つことになるウィナーズサークルで、2番人気が共同通信杯を勝ち父子2代制覇を狙う(父クライムカイザー)マイネルブレーブ。そして1番人気に推されたのが我らが「関西の秘密兵器」ことロングシンホニーである。

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ロングシンホニー

ロングシンホニーは1971年、1976年の日本のリーディングサイアーとなり、三冠馬シンボリルドルフの父にもなったパーソロンを父に持ち、エリザベス女王杯を勝ったロンググレイスを姉に持つ良血馬で、初戦から3戦は惜しいレースを繰り返すも、その後、未勝利、フリージア賞(400万下)、若草S(オープン)と3連勝してダービーに挑んだ。

特にフリージア賞は0.7秒、若草Sは1.4秒もの大差をつけて勝利しており、有力馬との対戦がないことやその2レースが共に重馬場であったことは、不安よりも期待と捉えられており、楽勝もあるかもしれないまで思っていたファンも多かった。

そして、鞍上には名手河内洋を用意し、万全の態勢で挑むが、0.6秒差の5着に敗れてしまう。ロングシンホニーはその後、菊花賞で6着(6番人気)、ダイヤモンドSで3着(2番人気)以外に目立った成績は収めることができず、条件戦で1勝するのが精一杯。

その後は地方競馬の名古屋競馬へ身を落とすも勝てず、今は廃場となった大分の中津競馬場でようやく1勝を上げたが、それが引退レースとなった。ダービーで1番人気になった馬とは思えない最期である。

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夢か幻か

ダービー後の成績から言うと、ロングシンホニーは「幻のダービー馬」というには少し物足りないかもしれない。しかし、他の「ダービーに出られなかった」幻のダービー馬も同じように、いくら他のレースで強い成績を残していたとしても、ダービーに出ていたら勝てていたかどうかなど、競馬の神様にだって分からない。

そういう意味では、1番人気だったロングシンホニーは、出走前は最もダービー馬に近い馬であると言えるし、もし直前で回避でもしていたらもっと「幻」感は強くなっていたはずだ。

ただ、私が初めて買ったダービーの1番人気で、さらに関西在住でもある私とっては「勝ってほしい」(馬券そこから買っていたし)という思いが強かった分、印象に残っているのだろう。

他にも、ペルーサやサクセスブロッケンも、私の「出走した幻のダービー馬」である。こう考えると沢山いるなぁ。

しかし、ロングシンホニーが1番人気だったダービーを勝ち、見事ダービー馬となったウィナーズサークルこそ、勝ったのに「幻のダービー馬」感があるほど、印象に薄い。不思議なものだ。

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