「武豊のライバルになり得た男」岡潤一郎を忘れない

騎手列伝
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武豊のライバルになり得た男

岡潤一郎という名前を聞いたことはあるだろうか。最近の競馬ファンなら「落馬事故で亡くなった騎手。名前は聞いた事がある。」という程度の事しか知らないという人も多いのではないだろうか。

私たち武豊世代(私は同い年である)にとっては、武豊に追いつき追い越す可能性を秘めた、当時の若手では抜けた存在であり、武豊のライバルとなっていたはずの期待の星であった。

1988年、武豊に1年遅れてデビューしたその年に44勝をあげ、最多勝利新人騎手賞を受賞(1年前の受賞者武豊は69勝)し、事故で亡くなるまでの5年間で225勝、そのうち重賞勝ちは5勝で、1991年にはエリザベス女王杯(リンデンリリー号)でG1制覇も成し遂げており、まさにこれからというところであった。

1990年には全盛期のオグリキャップに宝塚記念で騎乗し、圧倒的な人気のプレッシャーの中、オサイチジョージの2着に敗れてしまい、ひどいバッシングを受けた。しかし、その騎乗依頼もバッシングも彼に対する期待の現れであったように思う。

最後のレース

その岡潤一郎(愛称はジュンペーだったらしい。私はオカジュンと呼んでいた。)の最後のレースは、1993年1月30日京都競馬場の第7レース、新馬戦であった。

岡騎手が騎乗するオギジーニアスは1番人気。この年まだ未勝利であった岡騎手にとっては、初勝利のかかる期待のレースだったはず。私の馬券もおそらく彼から買っていたはずだが、レース後のあまりの衝撃に馬券のことは覚えていない。しかも、何故かここが定かではないのだが、私は当日、京都競馬場にいたはずなのだが、記憶がおぼろげではっきりしない。

競馬場も大きな騒ぎにはなっていたが、当時はスマホなど無いため、とにかく情報が入らず、帰りの車(送迎バスだったか)のラジオ音声で、ところどころ容体に関する情報が入るだけであった。

そのアナウンスでは、危ない状態であるような感触はあったが、競馬に落馬や怪我は付き物ということもありそう珍しくもないことから、楽観視するところもあって、しばらく乗れないかもしれないなという程度だったような記憶がある。

若すぎる死

その後、新聞などで状態が明らかになり、命に危険があることが分かり、そこからはただ生還することを期待したのだが、17日間の闘いを経て還らぬ人となってしまった。享年24の若すぎる死であった。

当時の岡騎手の印象は、差し追い込みが得意で、追える騎手であるということ、また、受け答えなどは地味なのだが、成績は当時記録となった連続騎乗機会5連勝を達成するなど華もあった。当時の若手騎手を応援・育成しようとする競馬界の期待を受け、驕らずにそれに応えようとする姿勢が見てとれるなど、周囲やファンからの印象は良かったように思うし期待も大きかった。

スポーツに事故は付き物であり、選手たちも常にその覚悟をもっていることは分かるが、やはり惜しい。中央競馬では岡潤一郎が18人目の犠牲者であり、その後2004年には竹本騎手がデビューからわずか3週間で落馬事故に遭い、これで19人もの騎手の命が奪われている。

他の競技中の事故

なお、他の公営競技では、正確な数字は分からないが、競艇では30人、競輪では50人、オートレースでは100人ほどの死亡事故があったようだ。

どの競技も相当のスピードのなか、プロたちが技術の粋をつくし鎬(しのぎ)を削るわけだから、極限の中での戦いにおいて大きな事故になってしまうことも分かるが、事故への対策や教育を十分に行い、繰り返されることのないことを切に願うばかりである。

コメント

  1. さかもと より:

    初めまして。ふと岡潤一郎のことを想いだし、ネットで検索してたどり着き、拝見致しました。
    あれ?書いたのはオレか?と思うほど同じ印象、境遇でした。
    オカジュンと呼んでいましたし、馬券もオカジュンから買ってたはずですし、現場にいたはずなのに私も記憶が曖昧です。命を落とすようなことになるとは思ってもなかったです。
    悲しい思い出ではありますが、とても懐かしく、いつまでもホッペの紅かったオカジュン、鮮明に思い出せました。
    ありがとうございましたm(__)m

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