田原成貴とサンエイサンキュー~天才が故の苦悩

騎手列伝
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1989年の関西騎手

私が競馬を始めた平成元年のリーディングジョッキーは、デビュー3年目の武豊(133勝)。もう「凄い新人」ではなく、名実ともに揺るぎない「トップジョッキー」である。「武邦彦の子供」と言われる事はなくなり、武邦彦が「武豊のお父さん」と言われだす、そんな頃であった。

その頃の関西の騎手は、勝ち星で言えば、松永幹(88勝)、南井(78勝)、田原(66勝)、河内(62勝)の順で、私のイメージは、松永幹はソツなく騎乗する武豊の一世代前の若手のホープ、南井はとにかく鞭をバチバチいれて気合で粘り込む昔ながらの苦労人騎手、河内は関西の騎手のドンで皆が目標とする飄々としたおっさんといったところである。

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天才騎手

そして田原成貴は「リーディングも取った一流騎手だが、怪我に泣いて騎乗を減らしている。また、端正な顔立ちと華やかな雰囲気から【競馬界の玉三郎】と呼ばれるも騎乗技術は一流で、時に大レースでも大胆な騎乗をしてしかも勝つ。」というもの。

天才と言われた福永洋一が怪我で騎手生命を断たれた後、入れ代わるように登場し、天才を継ぐ者として期待され、そしてそれに応えていた。しかし、私はその当時の田原は見たことがなかった。

全盛期の田原を知らない私には、実際のレースで印象に残るレースもあまりなく、もう旬を過ぎた騎手としか見えていなかった。数字を見ても、66勝は悪くない数字であるが、勝った重賞はたったの1鞍。とても華やかとは言えない。しかし、その1勝は7番人気のコガネタイフウで勝ったG1の阪神3才Sである。

今思えば、騎乗数が少なかったのは身体のことだけでなく、相手が調教師であれ馬主であれ、思ったことをそのまま言ってしまう、その性格によるものでもあったのかもしれない。その性格が顕著に表れたのが、かの「サンエイサンキュー事件」である。

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サンエイサンキュー事件

デビューから秋のクラシックまで

サンエイサンキューは、その素晴らしい戦績もさることながら、その過酷なローテーションでも有名である。デビューは2才(当時は3才と言っていたが、現在の表記に直す。但し、レース名の場合は当時の名称のままとする。以下同じ。)の7月、札幌の新馬戦。このダート戦を2着の後、翌週に連闘で挑んだ芝のレースで初勝利を上げる。

続いて、3連闘(!)で札幌3才Sに挑戦し13着と大敗。休む間もなくそこから明け3才になるまで4戦し、いちょうS(OP)を勝ち、函館3才S(G3)と阪神3才牝馬S(G1)で2着と好走する。

更に明け3才になっても休むことはなく、2月にクイーンCで重賞初制覇。3月にはなんと弥生賞にチャレンジし(5番人気6着)、桜花賞は2番人気に推されるも7着(勝ち馬はニシノフラワー。)に敗れる。そりゃ疲れが出たんだろう。

そんな状態で出走した、5月のオークスで田原に乗り替わり惜しい2着。凄い馬だ。普通ならここで休養して秋に備えるところ、7月には古馬を相手に札幌記念(1着)、8月には函館記念(1番人気8着)まで走らされる。この頃には既にサンエイサンキュ―の体調は良くなかったのだろう。そして田原はそのことについての不満があったようだ。今見ても酷いローテーションである。

秋のローテーション

秋の大目標エリザベス女王杯へのローテーションは、サファイヤSとロ―ズSの2つのトライアルを走ることとなったが、田原はローズSは出走すべきでないと反対する。しかし出走は強行され、結果サファイヤSを勝ち、ローズSも2着と好走してしまう。

問題となった発言

そして、本番であるエリザベス女王杯のレース前、調教後のテレビインタビューで、サンエイサンキューの体調が悪い事を繰り返しコメントする。そして録画終了後の「こんなに悪く言っちゃって、これで勝ったら頭を丸めなきゃなんないな。」との発言が、それを又聞きをした記者によって「田原2着以上なら坊主になる」と曲解された形で新聞の見出しとなり、敗退行為とも取られかねない発言として問題となった。

その後、スクープしたサンスポの記者が自社の対応を批判したことで解雇するなど、大きな騒動となってしまった。

この件については、歯に衣着せぬ田原の物言いがきっかけではあったものの、当時も今でも、田原は何も悪くないと私は思う。そして結果的に、エリザベス女王杯はなんとか無事に5着と完走したが、年末の有馬記念に強行出走し(田原ではなく、加藤騎手が騎乗)、トウ骨を骨折し競争を中止した。

サンエイサンキューの最期

普通ならその場で予後不良(殺処分)となるところ、繁殖牝馬として金にするため、馬主の要望で延命処置が施された。延べ6回もの手術が行われ、馬体は300kgにまで減っていたという。そして苦しんだ末、2年後に亡くなってしまう。

サンエイサンキューのローテーションが、馬ではなく金優先であったことはハッキリしており、それは経済動物であるから仕方ないと言い切ってしまえばそれまでであるが、そんな競馬には魅力はない。

そして、馬を守ろうとし、言わば公正なレースを守ろうとした田原が、悪者扱いされることになったのは、本人にとってもやるせない思いだったのではないだろうか。

競馬界の華

ファイトガリバーでの桜花賞制覇と「投げキッスがよく似合います田原成貴!ファイトガリバーです!!」との実況、トウカイテイオーの1年ぶりでの有馬記念の勝利と田原の涙、それまで先行・逃げの先方を得意としたマヤノトップガンを、後方待機からの直線一気で勝利に導いた春の天皇賞。

全盛期を知らない私にも凄い印象が残るレースはいくつかあり、当時、田原のいないG1は寂しく思ったものだ。

競馬会だけではなく、組織というものは多分に「正しい者が間違っている」という事になりがちで「沈黙が金」になってしまう事も多い。黙っていれば良いものを言ってしまう。これは天才が故の過信によるところかもしれない。

そのあたりの歪みが、その後の田原が破滅へ向かってしまった原因ではないだろうか。騎手を引退し調教師になった田原は、またも馬の使い方で馬主と揉めたあたりからおかしくなり、奇行を繰り返す。そして、ついには薬に手を出して競馬会を追放されてしまう。

同じ匂いのする藤田騎手が、こんな言葉を田原から送られている。

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田原からの言葉

「藤田伸二という木が成長していくと、周りに仲間や後輩という名の葉っぱが生えてくるだろう。その時、その木はしっかりと大地に根を張り、それを支える太い幹にならなければならない。」

田原こそ、その木になるはずであった。なって欲しかった。

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