もう一度見たい、岩田康誠の笑顔

騎手列伝

席巻する外人騎手

外人が猛威を振るう今の競馬界。平場もさることながら、特にG1では外人の活躍が目立ち、昨年(2018年)の秋などは、有馬記念まで10週連続外人騎手の勝利が続いていた。その有馬記念(2019年)は、歴代単独最多となる4回目の勝利を収めた池添騎手騎乗のブラストワンピースが強い勝ち方を見せ、ようやく日本人騎手の面目を保った。

外人騎手に追いやられて肩身の狭い思いの日本人騎手であるが、これは今に始まったことではなく、ひと昔前には「地方競馬出身」の騎手に、同じように勝ち星を奪い取られていた時代もあった。

もちろん、その嚆矢となるのはアンカツこと安藤勝己騎手であるが、関西ではそのアンカツを含む「武豊、アンカツ、岩田」の3強という時代があった。武豊は説明するまでもない、中央競馬のレジェンドでありJRAの生え抜きのサラブレッドである。

そして、3強のうちのもう一人、「岩田康誠」が今回の主役である。

中央競馬への移籍

「園田の帝王」と呼ばれ、1978年から1991年の14年間の長きに渡り園田(兵庫)競馬のリーディングジョッキーとなった田中道夫を抜いて、1992年にリーディングジョッキーとなったのは、こちらも後に中央へ移籍する小牧太。

※ 兵庫競馬は、園田競馬場と姫路競馬場の2つの競馬場から成るが、姫路競馬場では予算や集客力の問題により、2012年から開催されていない。但し、2020年から開催の復活が予定されている。

小牧太は、その後9年続けてリーディングジョッキー(通算10回)となる。その小牧太と「園田の2本柱」と言われ、1990年代後半からは二人で1位2位を分け合ったライバル、それが岩田康誠である。

この園田を代表する二人は、2004年に小牧太、2006年に岩田康誠が、それぞれ中央に移籍することになる。なお、この二人に続く成績を収めていた「園田第3の男」赤木高太郎も2004年に中央競馬への移籍をしている。

ちなみに、小牧と岩田はいわゆるアンカツルールにより一次試験(筆記)が免除されているが、赤木高太郎は猛勉強の末、一次試験から合格したという。失礼な言い方になるが、もし、岩田康誠に特例が無かったら、恐らく移籍は無理だっただろう。

実際、一次試験は2回受けており、本人曰く「円形脱毛症になるほど頑張ったけど、鉛筆さえまともに握ったことのない自分には厳しい。ひらがなでバーッと書いたけど、ダメでした。」という事らしいので、一次試験免除への道を開いた、アンカツ様々というところだろう。

地方競馬時代と乗り方について

ある日のこと、「園田の帝王」田中道夫はお手馬が重なったため、馬を選んだが、なんと乗らなかった方の馬に勝たれてしまう。その馬に騎乗していたのは、デビュー間もない岩田であった。その時から「アイツだけには乗って欲しくない」と思う一方、その騎乗技術は認めていたという。

また、第一人者の小牧太をして、「新人のときからちょっと違ってた。ゲートが早かった。天下一品やった。」「すごい新人が出てきた」と思ったというから、デビュー当初から、その才能を十分に発揮していたようだ。

地方競馬は騎手も骨っぽく荒い。手綱をしごき身体全体を使って馬を動かすというところもあり、馬同士をぶつけ合い凌ぎ合うというレースも多い。そんな地方競馬出身の岩田だから仕方ないのであろうが、中央へ入っても少し強引なレースが多かった。

特に、岩田得意の内を突くレースでは、その鮮やかな勝ちっぷりから賞賛される事も多かった一方、他馬に迷惑をかける事も多く、制裁の対象になることも多かった。その事が、後に岩田の競馬人生を大きく揺るがせる事になる。

また、馬を動かす力となる「馬の背にトントンと尻をつけるフォーム」については、関東のトップ騎手である蛯名正義などが真似するように評価される一方で、藤田伸二などからは、「不格好で馬を傷つけることから、絶対に認められない」とも言われている。

中央移籍後の活躍

中央移籍後の活躍は目覚ましく、園田時代に鎬を削った小牧太の成績を遥かに上回る。2006年から2009年あたりは常に100勝を超え、全国リーディングでも3位、2位、4位、3位と、早くもトップジョッキーの仲間入りをしている。

勝ち星ではリーディングを取ることは無かったが、印象的なのは大レースでの勝負強さと、その鮮やかさであった。2008年などは、収得賞金での全国1位を達成している。

ヴィクトワールピサの皐月賞では、落馬負傷した武豊からの乗り替わり、そして1番人気というプレッシャーの掛かる状況を跳ね除け、見事勝利を収める。あまり良くないスタートから、道中はジッと後方待機。4コーナーでも、まだ内に包まれるところ、焦らずに最内を突いてラチ沿いから突き抜ける。

兵庫アラブの三冠馬「ケイエスヨシゼン」での騎乗など、大レースのレース前にはよく吐いていたという。また、インタビューでも盛んに「プレッシャーに弱い」と言っているように、レース前にはかなり緊張するようであるが、いざレースが始まると吹っ切れるのか、思い切った騎乗が多い。

アドマイヤジュピタでの春の天皇賞では、3番人気と人気を集めるが、スタートで出遅れてしまう。前哨戦の阪神大賞典では2番手から抜け出して勝っているように、先行タイプのアドマイヤジュピタには厳しい展開であるが、馬の力を信頼しそのまま11番手からの競馬を選択、4コーナー手前から加速し、直線一気に抜け出して勝利する。

その後、史上7人目のクラシック完全制覇を果たすなど、アンカツ、内田博幸、戸崎圭太らの地方競馬出身のトップジョッキーの中でも、最も活躍した騎手と言っていい。

名言と人物

岩田康誠と言えば、数々の名言(迷言?)でも有名である。「スローペースなので下げました。」(スローペースで下げてどうすんねん。)「内に行こうか外に行こうか迷ったけど、迷わず内に行きました。」 (迷ってへんがな。)などが良く知られている。

その人物については、見たままの天然キャラで、またイジられキャラでもあるようだ。武豊とはカラオケも一緒に良く行っていたようである。私のイメージも、愛すべき無垢な職人といったところで、悪いイメージは無い。

その一方で、精神的には不安定なところもあり、後には急に丸刈りにしたり、急に白髪になったり(これは染めたのを止めただけらしい)、またドクロのTシャツにグラサンという恐ろしい格好になっていた事もある。

2016年には心機一転、一時的に拠点を関東に移したという事などもあり、このあたりの精神的弱さが、あの事故と事件の後、岩田康誠の騎乗、心、表情を全て変えてしまったのだろう。

後藤浩輝騎手の落馬

2013年に引退するアンカツは、2010年あたりから騎乗数を減らしており、その頃の関西の競馬を牽引していたのは、武豊と岩田であった。

この両者は平場でも人気を分け合う事が多く、また大舞台のG1では岩田の方が勝負強さを発揮して、目立った活躍をしており、しばらくその状況は続くと思われた。

特に2012年はジェンティルドンナとロードカナロアでG1を席巻し、ディープブリランテでダービーも勝つなど、まさに岩田は絶頂期を迎えていた。一方、岩田の騎乗スタイルが問題視されたのもその2012年頃からであり、後に後藤浩輝騎手を不幸に巻き込む原因となる最初の落馬も、その2012年であった。

最初の事故

2012年5月のNHKマイルカップ。シゲルスダチに騎乗した後藤浩輝騎手は、最後の直線で岩田康誠騎乗のマウントシャスタの斜行のあおりを受け、落馬。その際、シゲルスダチは動かない後藤騎手を見守るようにその場を離れず、この時はそのシゲルスダチの様子が話題となったが、それはまた別の話。

落馬した後藤騎手は、当初は頚椎捻挫の軽症で済んだと思われていたが、翌日になって「頚椎不全損傷」という大怪我である事が分かり、4ヶ月もの期間、騎乗できないこととなった。

このレースでの斜行により、岩田は4日間の騎乗停止の処分を食らうが、騎乗は悪質で処分はぬるいという意見が多数を占めていた。しかし、一方で「勝負事には不可欠なもの」「外国では当たり前」という、岩田を擁護する意見もこの時はまだあったように思う。

2回目の事故

最初の落馬から4ヶ月後の9月6日、後藤騎手は馬場入場後に落馬してしまう。その日は続けて騎乗するも、翌週16日に首の不調を訴え受診したところ、第一頸椎・第二頸椎骨折、頭蓋骨亀裂骨折と診断され、またしても長期休養に入る。

1年以上のブランクを経て、復帰した後藤騎手であるが、その7ヶ月後、またしても落馬の憂き目に合う。そして、その加害者はまたしても岩田康誠。怪我の程度は最初の事故と比較して軽かったようだが、度重なる怪我に後藤騎手の頚椎は悲鳴をあげていたのかもしれない。

そして、何よりも心が折れかけていたのだろう。それでも後藤浩輝は懸命のリハビリにより、復帰を果たす。その間、岩田康誠はオークスを勝ち、地方競馬出身騎手の最多勝利記録を塗り替える。

しかし、表彰台の岩田の表情には笑みは全くなく、インタビューでも「1日も早い後藤騎手の復帰を望みます」と力なく答えるのが精一杯だった。

後藤騎手は、岩田に対しては全く恨みなどはなく、「全く何とも思っていない。ワザとではないし、いつ立場が逆転するか分からないから。」と言っており、それは偽りない気持ちだと思う。しかし、度重なる怪我とリハビリにより、気持ちが下向きになってしまっていたのだろう。

後藤浩輝の最期

7ヶ月後に復帰した後藤は、復帰17戦目にして勝利をあげた。スタンドはG1並みの声援と拍手で埋め尽くされ「これまで7ヶ月苦しんできたけれど、一瞬で吹き飛びました。」と語った。

この言葉は、もちろん喜びを表現しているのであろうが、裏を返せば「7ヶ月苦しかった」とあるように、後藤騎手の辛さ苦しさが現れているようにも思うが、何にせよファンの皆が喜んだ瞬間であり、岩田もホッとしたのではないだろうか。

しかし、信じられない事に、その3ヶ月後の2月21日のステイヤーズSで、またしても後藤は落馬してしまう。怪我は「頚椎捻挫」と今までの落馬の際と比して軽いものであり、その翌日には2勝を上げている。

安心したのも束の間、その数日後の2月27日、後藤浩輝は、自宅の脱衣所で首を吊った姿で発見される。警察によると事件性は無く自殺とされたが、頚椎を伸ばすつもりでの事故ではないかとの噂もあり、真相は本人にしか分からない。

それと同じように、自死であったとしても、岩田が加害者となった2度の落馬がその原因であるかについても、本人にしか分からないことである。ただ、どちらにしても岩田康誠にとっては、他人事では済まされない。少なくとも岩田本人は責任を感じ過ぎているのではないだろうか。

もう一度見たい笑顔

後藤の死から4年。時の経過が少しは岩田に安寧をもたらしてきたのか、ここ数年、復活の兆しが見え始めている。2018年には、春の天皇賞で久しぶりのG1勝ちをレインボーラインで収めることができた。

しかし、入線直後、歩様に問題があり岩田は下馬する。その後「右前繋部浅屈腱不全断裂」と診断され、現役引退を余儀なくされた。不運としか言いようがない。

2019年は岩田本人が好調な上、3月には次男の岩田望来が騎手デビューを飾った。この調子で、もう一度、岩田康誠の笑顔が見たい。それが後藤騎手への1番の供養なのではないだろうか。

コメント

  1. JAM より:

    自分勝手の極みな迷惑騎手。
    復活など不要。

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